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  • 執筆者の写真宍戸 竜二

彼女のうなじと、甘い柑橘の香り

更新日:2020年9月18日

✦宍戸竜二 個展「ハピネス」 ギャラリーハウスMAYA 2020年9月28日〜10月3日まで

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title「僕は彼女の、名前すら知らなかった」







 ある晴れた夏の日の朝、一人の女性が突然僕の目の前に現れて、「私はあなたとここで暮らす……」と言ってメモのようなものを差し出した。「え?」と言って僕は次の言葉を聞き逃さないように、右の耳を彼女の方に傾けた。「……えてる?」彼女はもう一度言葉を発したが、真夏の空の下の暴力的な蝉の声は、その言葉も簡単に遮った。彼女は僕の腕を引っ張り、すぐ手前にあったガード下まで連れて行くと、すぐ目の前に立った。彼女の身体は折れてしまいそうなほどにほっそりとしていて、ワンピースのノースリーブから降りたまっすぐな腕は、夏の日差しを反射させるほどに白く滑らかな肌をしていた。その姿を見た僕の胸の奥の鼓動は、次第にその速さを増していった。

 彼女は僕の腕を掴んだままじっとこちらを見ていて、その手はしっとりと汗ばんでいた。その汗が僕のものなのか彼女のものなのかわからなくて、罪悪感のようなものが湧いた。

「あなたはそこで私と暮すのよ。わかった?」

 彼女は僕にメモを手渡しながら、少しだけ切れ上がった目で見上げるとそう言った。僕はそのメモを握りしめると、眉間のシワを深めた。「あなた、何も覚えてないのね」とだけ言うと彼女は一人で歩き出し、ガードの外に消えていった。僕は車道に足を踏み出していて、通りかかった車が苛立ったクラクションをガードの中に響きわたらせた。僕は右足を少しだけ引きずるように慌ててその場所を出たが、彼女の姿はもうどこにも見当たらなかった。メモを見ると確かにそこは僕の家の住所だった。「何が起きた?」「誰?」「どういうこと?」様々な言葉が頭の中を渦巻きのように舞ったが、僕は知っている、何かを知っていた。僕はメモをじっと見つめた。


 予定通り買い物を済ませ家に戻ると、玄関の鍵が開いていた。そこには見知らぬ赤いビロード生地のパンプスが置いてあった。履き口には小さなピンク色のリボンが付いていて、左右を綺麗に揃え、かかとを框につけるように置かれていた。部屋の奥からは、丁寧に取ったことがすぐにわかるような、芳しい出汁の香りが漂っていた。

「すぐに夕飯の支度ができるわ、シャワーでも浴びたら?」

 玄関に現れたのは、紛れもなくさっき僕にメモを渡した女の子だった。

「隣のおじいさんが大家さんかしら? 親戚なのって話したら開けてくれたわ」

 僕は矢継ぎ早に話す彼女の言葉を聞くだけが精一杯で、ただ頷いていた。でもなぜかはわからないけれど、これでいいんだ。そう感じたのも確かだった。女の子は「夕飯、遅くなってごめんね」とだけ言うとまたすぐにキッチンに戻った。部屋に入ると、テレビの脇には小さなスーツケースが置かれれていて、大きなつばの麦わら帽子が立てかけてあった。キッチンを覗くと女の子は肩ほどの髪を一つに束ね、どこか遠いヨーロッパの小さな片田舎にでも行かないと出会えないような、憂いなうなじを見せていた。女の子が右に左に手際よく動くたびに、その束ねた髪もひらり、ひらり、と左右に揺れた。少しだけのその揺れを目で追ったあと、僕は首をかしげながらバスルームに行き、自分でもわかるような嫌な匂いの汗をシャワーで流した。


 髪を拭いていると何かの記憶がこめかみあたりに引っかかり、重心を傾かせた。僕は覚えていた。あの女の子のうなじを。確かにあの子だった。その記憶はこめかみから一気にお腹のあたりまで流れると、僕の手のひらの上に乗った。手のひらの上の感触をじっくりと感じるように、その記憶を優しく握りしめた。僕は首にタオルを巻き、髪を拭きながら部屋に戻った。彼女はお盆に料理を乗せてテーブルに行く途中、僕に気がつくと小さく笑い「やっと思い出してくれたのね」と言った。そのお盆をキッチン台に置くと、彼女は僕のそばまで来て腰に手を回し、そっと抱きしめると胸に横顔を当てた。

「会えて嬉しいよ」と言って僕も彼女の背中に手を廻した。僕の胸に当てた彼女の頬からは、優しく穏やかで、そして僕を守ろうとしているかのような温度が伝わった。

「私もよ」と言って彼女は僕の顔を見上げると、目尻を下げ微笑んた。

「ずいぶんと時間が経った」

「ええ、そうね。でも、どうしても今だったの」

「……君が今だと言うのなら、それは誰がなんというと今なんだ」

「その言い方、あなた何も変わらないのね」

「変わりようがないみたいなんだ」

 そう言うと彼女は僕の肩についていた小さなゴミを取りながら、クスクスと笑った。

「足はどう?」

「まあまあだよ。もう元のようには走れないけどね。でも僕はこのくらいの不自由さは特に気にしないみたいなんだ。自分でも驚いているけど」

「あなたはとても素敵よ。その足の引きずり方も」

 僕は彼女の背中に深く腕を回し、その懐かしいうなじに顔を埋めた。うなじからはあの時と同じ、甘いかすかな柑橘の香りが漂っていて、僕の記憶を一気に20年前のあの場面まで鮮明に戻した。一度だけ会った彼女と僕らはその場で約束をした。とても大きなものを失ったその場での約束は、僕らにとっては絶対に果たすべき約束だった。ただ彼女のことを待つことしかできなかった日々の中で、それは初めから計画されていたかのように、僕は次第に彼女のことを忘れていった。長い沈黙の記憶を揺り動かすかのように、彼女はある日突然こうして目の前に現れた。

「君の香りも何も変わってない」

「そうね」

 夏の夕暮れが、窓から見える遠くの半島を夜の色に染め始めていた。昼間の狂ったような蝉は眠りにつき、辺りにはカナカナカナと鳴く夕方の蝉の音色が響き渡った。


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