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  • 執筆者の写真宍戸 竜二

三日月が見た満月の夜

更新日:2020年9月25日

✦宍戸竜二 個展「ハピネス」 ギャラリーハウスMAYA 2020年9月28日〜10月3日まで

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tintle「三日月が見た満月の夜」










 冬の寒さが厳しさを増し、星が漆黒に映える暁の空になると、さつきは寝てる僕を起こし、「夜明けが見たい」とよく言った。さつきがそう言った日の夜明けには必ず、見たこともないような色彩が現れた。生まれ来る朝日を透かしたその色彩は、この世の苦しみなど片っ端から吹き飛ばしてしまいそうなほど美しかったし、それを見た彼女は、どんな瞬間よりも魅力的に微笑んだ。きっとそのときでしか得られないエネルギーのようなものがあるのかもしれないと思った。僕はそんなさつきの表情が見たかったから、どんなに眠くても必ず車を走らせた。


 お腹の中の三日月が激しく胎動をするようになると、さつきの体調は見ていられないほどに崩れていった。入退院を幾度か繰り返したものの、安定期を過ぎても悪阻は波のようにだらだらと訪れ、さつきの命を削った。ベッドにうずくまる日が続いていくと、いつも気丈に振る舞っていた表情も徐々に消えていき、「死にたくない。わたし、どうしたらいい……?」などと言うようになった。そんな時は寝ているさつきの背中に手のひらを滑り込ませ、枕に頭を並べ添い寝をした。さつきは少しだけ僕の方に顔を寄せ、表情を緩ませた。反対の手のひらをそっと彼女の胸元に置くと、心の奥を探るようにその手に意識を集中させた。そこから伝わってくるものは、消えゆく不安やもどかしさなどの怒りだった。僕はその一つ一つの感情を否定せず、消そうとせず、「そこにいていいからね」とメッセージを送り続けた。そして、「さつきは大丈夫だから、もう何も考えなくていいよ。この手の温度、感じられる?」と言うと、さつきは小さく頷いた。


 臨月を過ぎた頃には、さつきの体調も今までが嘘だったかのように落ち着いていった。大きなお腹に手を当てると、小さな三日月も元気に足を蹴った。予定日を少し過ぎたある日の明け方、さつきがいつもみたいに僕を小さく揺すった。

「ねえ、起きて……、ねえ」

「ん……?」

「来るわ」

「今……、何時……?」

「もうすぐ4時よ。今日の星はとても明るいの」

「うん。お腹は大丈夫? さつきは?」

「私はなんともないわ。この子もとっても気分が良いみたい」

 そう言うと、大きなお腹を愛おしそうにさすった。

「メガネ、メガネ……」

 と言って僕は両手で宙を泳がせおどけた。

「やあね、どこかの漫才師みたいじゃない」

 と言ってさつきはクスクスと笑いながら僕にメガネをかけた。視界の焦点が合い、重い瞼を細めながら窓の外を見ると、夜の色は淡く解かれ始めていた。さつきはすでに朝ごはんを用意していたようで、それをバッグに詰めると僕らは肩を寄せながら玄関を出た。

 カタカタと小さな音のする古いワンボックスの軽自動車。僕らは暇さえあればこの車で旅に出た。日本中どこまでも走った。その旅の途中で、この海辺の道の夜明けに出会い、僕らは心を奪われた。それがこの街に住むきっかけだった。


 助手席に乗ったさつきは、ここしばらく見られなかったような力強い表情をしていた。そして、「朝が生まれる」と言って口元を少しだけ緩ませると、瞳の中にその生まれ来る小さな光を瞬かせた。僕は周りを注意しながら、その海岸線を可能な限りゆっくりと進んだ。すると、カタカタという小さな音は消えていった。さつきは、走る車の窓からの夜明けを何よりも喜んだ。街々の光は夜明けに抗うかのように揺らいでいたが、水平線から昇る太陽の圧倒的な色彩が、その街の光と共に鮮やかに夜を消していった。僕らは指先で手を繋ぎ、それぞれが持つ心の内側の小さな部屋の中で佇みながら、その夜明けを聴いた。その音色はお腹の奥の方を少しだけ刺激し、ゆっくりと広がるように胸へと伝わった。すると僕らの繋がれた指先は、いつものように静かに温かみを帯びていった。太陽は日々、誕生と死を繰り返している。その命を燃やすような夜明けを見るたびに、僕らは目に見えない心の内側の距離を近づけていった。


 家に戻ってしばらくすると、さつきは急に苦しみ出し、僕らは病院へ駆け込んだ。さつきは三日月を産むのと同時に、その命を全うした。彼女はいつも僕に向かって「命に変えてでも、素晴らしいこの世界にこの子を送り出すわ」と言っていたが、それは時折独り言のようにも聞こえた。僕はそんな言葉を聞いたところで一つも現実味もなかったから、その度にただうなずき「さつきはいなくならないよ」とだけ言った。そう言うといつも、ほっそりとした手のひらを僕の頬に当て、目を見つめながら「大好きよ」と優しく言った。そう言う小さなやりとりが、幾月に一度くらいはあった。そんな日の夜には、大抵細くて鋭い三日月が夜空に浮かんでいた。


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