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  • 執筆者の写真宍戸 竜二

瞬き

更新日:2020年10月23日

✦宍戸竜二 個展「ハピネス」 ギャラリーハウスMAYA 2020年9月28日〜10月3日まで

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title「瞬き」





 辺りが日を遠ざける頃、一昨日7歳の誕生日を迎えた娘の三日月を自転車の後ろに乗せ、僕らは晩御飯の買い物へと走っていた。空には登り始めの黄金色の満月が、全てのエネルギーを吸い取ってしまったかのように、巨大なその身体を浮かせていた。

 角を曲がり住宅街を走ると、一週間ほど前には暗いただの道だった場所が、今ではあちこちの家先が競うように電飾を点滅させていて、自転車のライトなんて必要ないくらいだった。道は軽く下っていたから、自転車は思った以上に加速する。ブレーキに指を当てながら慎重に走った。夜道が華やかに灯るようなこの季節の空気は、マフラーとニット帽の隙間から覗いた頬の先端を凍えさせ、メガネを白く曇らせた。

「寒くない?」

 後ろから僕のポケットに突っ込んだ三日月の手を、上着の上から握りながら言った。

「ポケットがあたたかいの。それに お月さんもいる」と三日月が言った。

――以前三日月に、「お月さんはなんで 夜でも あんなにあかるいの?」と聞かれたことがあった。そのときは、「とてもたくさんの火が燃えているからだよ」と本当のことを教えてもわからないだろうと思ってなんとなくごまかした。そのとき三日月は、「あたしの おつきさんは とってもほそいでしょ? だからあまり あたたかくはないのね」と言っていたのを思い出した――

「大きなお月さまだね」と空を見ると、月はほんのわずかな時間でもまた大きくなったように見えた。

「さむいの?」とマフラーを巻き直した僕を見て三日月が言った。

「風が冷たいね」と言って身震いするように肩をすくめた。

「あんなに お月さんが おおきいのに」

 そう言うと三日月は、ポケットの中の手をがさごそと移動させ、僕に抱きつくようにお腹のあたりにその手を当てた。

「あたたかい?」

「うん、とっても。まるでお月さんがお腹の上にいるみたいだ」

 そう答えると、もう少しだけ強く僕のお腹を抱きしめた。


 三日月は、7歳の誕生日を迎える少し前から、「父」と呼んでいた僕のことを突然「あなた」と呼び始めた。その呼び方に興味を惹かれた僕は「なんだい?」と答えた。すると三日月は少しだけ目を細め、もう一度「あなた」と呼び、しばらく間を置いたあと「きにいったわ」と少し首を傾げながら言った。こんなに小さな子供なのに、その仕草や眼差しは、娘を産むのと引き換えるように命を尽くした、この子の母であるさつきを思い起こさせた。

 僕はその手のひらに応えるように三日月の足に手を当てて、ぽんぽんと叩いた。すると少しの間があったあとに、「母はどんなひとだった?」と言った。三日月は抱きつきながら、僕の背中に……、おそらくは横顔を当てていた。

「え、あ……」

 唐突で見透かされたような問いかけに、僕は思わず言葉を詰まらせたが、三日月はそれ以上は何も聞かなかった。けれど、上着越しに伝わる三日月の身体の温度は、何かを許そうとしているかのようにその温かさを増した。

 自転車が小さな段差を通り過ぎるたびに、僕らの体は突き上げられるように弾んだ。

 大通りに出ると、さらに風は冷たく速さを増した。片手でマフラーを鼻の上まで手繰り上げていると、道路の真ん中に転がっている白い塊が目に入った。横目で見ながらそれを通り過ぎる。すぐにそれが何なのかを理解した。それは息の絶えた猫だった。そこにはまだ生と死が混ざり合っているかのような、複雑な気配が佇んでいた。しかしそれはもう二度とは動かない。それだけは確かだった。その気配が鳩尾の奥に現れると、紙に水が滲みていくように広がっていった。

 通り過ぎたあと、しばらくしてからまた振り向くと、それは全く同じ格好のまま、見える角度だけが変わっただけだった。

「あなた、まえみて」不自然な角度で道路を見ていた僕の顔を覗き込むと、諭すように言った。「うん」とだけ応え前を向くと、再び冷たい風が僕の頬の温度を奪っていった。僕の意識は、頭の少し斜め上のところを彷徨った。


 チェーン店のスーパーの駐輪所に着くと、そこには年の瀬なのだと一目でわかるような、西洋と東洋が雑多に入り混じった光景があった。

 僕だけが自転車を降り、一台ごとに割り振られた前輪を乗せるスタンドまで押して歩いた。三日月が後ろの座席から「あれは猫だったの? ……」と僕を覗き込むように言った。僕は少しだけ振り返ったが、「たぶんね……」とだけしか答えられなかった。

 買い物中も三日月の頭の中には、あの猫のことがふわふわと存在しているかのように、視線は今ここではない何かを見ているかのようだった。そんな視線を発するとき、一体どこで覚えたのだろうと思うように、三日月は自分の内側と対話をする。それも誰にも邪魔なんてされたくないような大事な思いについてだ。それがわかるから、僕はずっと一人でカートを押して歩き、時折三日月を置き去りにしてしまう。その度に慌てて戻った。

 何を聞いても特に食べたいものもなさそうだったから、僕が全てを選んだ。今日は二人でピザを焼こうと言ってここにきた。粉から捏ねるような本格的なピザだ。というより、ピザを焼きたい僕に娘が付き合ってくれた。そんなところだった。


 帰り道にもその白い塊の猫は、同じ姿勢のままそこにあった。けれど大きく何かが変わっていた。それは生と死が入り混じったようなあの気配ではなくて、完全に死に支配された、ただの「物」としての気配があるだけだった。

 猫はセンターラインから外れた辺りに横たわっていたので、車はその脇を避けるようにハンドルを切っていた。僕らの自転車は行きとは反対側の車道の端を走っていて、そこからは横たわる猫の4本の足が見えた。もしどこかの草原でその姿を見たのなら、それはのんびりとした寝姿に見えたかもしれないような、どこにでもある猫の姿だった。


 家に着くと、スーパーの袋をキッチンのカウンターにどさりと置き、買ったものを決まった場所に納めようとしたところで、慌てて浴槽の給湯スイッチを押しに行った。我が家の給湯器はとても古くていつも機嫌が悪かったから、特にこの時期には湯が沸くまでに時間がかかった。弾むような小さな音声が響いた後、浴槽に水が流れ込む音が聞こえた。その音が聞こえてくると、またあの猫を思い返した。

「あなた、何かかんがえてるの?」と三日月が言った。

「何でもないよ」とぼそりと答えた。

 三日月は僕の目の中をじっと見つめた。その視線はスーパーで見た、あの視線と同じだった。


 こんな猫の事故の場合、何もしなくとも、大抵誰かが役所の小動物処理センターなどに連絡をして、翌日には何事もなかったかのようにいつもの景色がそこに蘇る。誰でも生きていたら、一度はそんな風に他人事にしたことがあるはずだ。猫の死というものは、いつでも僕らの目の前にあるのものなのだ。

 なんだか料理をする気もなくなり、テーブルの席に深く座ると、窓の外を眺めた。窓は部屋の湿気で曇っていて、外の様子は分からなかったが、黄色く光る月の明かりが見えた。月はまだ低いところを漂っているようだった。

 三日月を見ると、お気に入りのスウェーデンの著名な作家が描いた絵本を、ソファーで仰向けに転がりながら読んでいた。足元は小さくパタパタとスイングした。

 ストーブの赤い炎が赤や黄色に揺らいでいて、乗せた小さなホーローの鍋からは小さな湯気が登っていた。三日月に「お腹空いてる?」と聞くと、本を読みながら「すいてなーい」と答えた。だから僕はまたしばらく窓の外を眺めた。少しの間が過ぎると、スイングしていた足が静かに止まった。ソファーの方に目を向けると、三日月はゆっくりと気だるく起き上がった。目が合うと、ふと、「あの猫、埋めに行ってあげないか?」僕はそんな決意もなかったような言葉を発していた。しかし言葉にしてみると、それは僕の中にある意思だとわかった。三日月はしばらく窓の外を見つめると、絵本を持ったままテーブルの前まで来て、ふわっと僕に身を委ねた。絵本は床に落ち、その角が当たる音がした。

 僕にもたれかかったその三日月の重さは、産まれた時に腕の中で感じたその感触と同じように、今でもその生としての生々しさを思い起こさせた。三日月の身体から伝わる鼓動は少しだけ早く、何かの記憶を思い出しているかのようだった。僕はその鼓動を邪魔しないように抱きしめると、そっと髪を撫でた。

 外の空気は凍えるくらいに寒かったけれど、僕はまた三日月を後ろに乗せ、自分の意思を固めるように力強くペダルを踏んだ。三日月もまたさっきと同じように、後ろから僕の上着のポケットに手を入れた。

「あなた?」三日月は少しだけ身を横に逸らすと僕を呼んだ。

「ん?」

 自転車をゆっくりと止めると、慌てて振り返った。

「だいじょうぶよ、あなた」三日月は少し上目使いで、落ち着いた声で言った。

 その声は子供のものではないように思えた。


 大通りに出る信号で止まった時、三日月が僕のポケットの中のミントの粒が欲しいと言って、「あ、あ」と口を開いた。辛くて食べれないだろうと思ったけれど、一粒を舌の上に置いた。すぐに三日月は眉間を目一杯に寄せると「からい」と言ってミントの粒の乗った舌を出した。僕は笑いながら手袋を外し、手のひらを差し出すと、ぽろんと小さな粒が落ちた。その粒を僕は自分の口に放り込んだ。信号が青に変わりペダルを漕ぎ出すと、ミントを舐めた口が風に滲みて、少しだけ「ふう」と空に向けて息を吐き出した。息はすぐに白くなって、自転車にまとわりつく気流に弄ばれるようにどこかへ消えていった。

 到着するとその猫は、やはりさっきと何も変わらない姿でそこにいた。僕は自転車を歩道の脇に止めると三日月を下ろした。三日月は「待ってる」とだけ言うと自転車のそばで佇んだ。ビニールの手袋と大きなバスタオルを掴みながら道路に出ようとすると「あなた、きをつけて」と三日月は言った。

 そばで見るその猫のふっくらとした体には傷なんかなにもなくて、今にも動き出しそうだった。しかしもちろんそれは完全に死んでいて、二度と動かない。目もどこか遠くを見るように薄く見開いていた。体の白い色は薄汚れていて、毛は見るからにごわごわとしていた。

 しゃがもうとすると、一台の車が脇を蛇行するように通り過ぎ、僕は動きを止めた。後続の車が来ないのを確認し、猫の体の下に手を入れると、そこにはまだ小さな温度が残っていた。暖かいとは言えないような温度だったが、確かにそれはこの猫が生きていた証に思えた。次の瞬間、はっきりとした何かの鋭い感覚が通り過ぎた。すると徐々に目に映る景色のフォーカスがずれ霞み、一気に心が深淵を降りた。するとそこは大きくて広い包まれるような海が現れた。反対車線の車が僕にクラクションを鳴らすと、僕はハッとしその深淵から目をさます。辺りを見回すと少し先の信号には、さっき通り過ぎたばかりの車のテールランプが光っていた。僕は一度大きく息を吸うと、ぐにゃっとなる体に手間取りながらも、猫をバスタオルで包んだ。そして車の途切れた隙を見て、また三日月の待つ自転車に戻った。三日月はじっと立ったまま僕の方を見つめていた。

 僕は「連れてきたよ」と言って表情を緩めた。バスタオルで包まれた猫を一度地面に下ろし、その様子を眺めた。三日月も僕の腕にしがみつきながらその姿を眺めた。首輪の跡もないし、やっぱり野良猫なのだろう。そしてどこにも傷らしい傷も見当たらなかった。けれど包んだバスタオルには血が付いていて、よく見るとそれは口から出ていたものだった。

「このこ、いたくないの?」とかがみながら猫を見て三日月が言った。

「もう痛くないんだよ」と僕は答えた。

「いたくなかったら、走れる?」

「そうだね、いっぱい走れるさ」

「そこは母がいるところ? 母は猫、すき?」

「大好きだよ。だからきっとパンケーキを焼いて待ってくれているよ」

 僕はしゃがんで、三日月と同じ目線で言った。

「猫はパンケーキはたべないわ」

「じゃあ魚のパイかな?」

「パイもたべないわ」

「そっか……」

「あなた猫がなにをたべるのか、なにもしらないのね」

「何を食べるんだろう?」

 僕は猫が何を食べるのかなんて、何も知らなかった。

「そうだ母のいえにつたえなきゃ」

 三日月は、浜辺にある母親のさつきが眠る墓のことを「いえ」と呼んだ。僕らはその浜辺にこの猫を埋めることにした。

     *


 冬の寒さが厳しさを増し、星が漆黒に映える暁の空になると、さつきは寝てる僕を起こし、「夜明けが見たい」とよく言った。さつきがそう言った日の夜明けには必ず、見たこともないような色彩が現れた。生まれ来る朝日を透かしたその色彩は、この世の苦しみなど片っ端から吹き飛ばしてしまいそうなほど美しかったし、それを見た彼女は、どんな瞬間よりも魅力的に微笑んだ。きっとそのときでしか得られないエネルギーのようなものがあるのかもしれないと思った。僕はそんなさつきの表情が見たかったから、どんなに眠くても必ず車を走らせた。


 お腹の中の三日月が激しく胎動をするようになると、さつきの体調は見ていられないほどに崩れていった。入退院を幾度か繰り返したものの、安定期を過ぎても悪阻は波のようにだらだらと訪れ、さつきの命を削った。ベッドにうずくまる日が続いていくと、いつも気丈に振る舞っていた表情も徐々に消えていき、「死にたくない。わたし、どうしたらいい……?」などと言うようになった。そんな時は寝ているさつきの背中に手のひらを滑り込ませ、枕に頭を並べ添い寝をした。さつきは少しだけ僕の方に顔を寄せ、表情を緩ませた。反対の手のひらをそっと彼女の胸元に置くと、心の奥を探るようにその手に意識を集中させた。そこから伝わってくるものは、消えゆく不安やもどかしさなどの怒りだった。僕はその一つ一つの感情を否定せず、消そうとせず、「そこにいていいからね」とメッセージを送り続けた。そして、「さつきは大丈夫だから、もう何も考えなくていいよ。この手の温度、感じられる?」と言うと、さつきは小さく頷いた。


 臨月を過ぎた頃には、さつきの体調も今までが嘘だったかのように落ち着いていった。大きなお腹に手を当てると、小さな三日月も元気に足を蹴った。予定日を少し過ぎたある日の明け方、さつきがいつもみたいに僕を小さく揺すった。

「ねえ、起きて……、ねえ」

「ん……?」

「来るわ」

「今……、何時……?」

「もうすぐ4時よ。今日の星はとても明るいの」

「うん。お腹は大丈夫? さつきは?」

「私はなんともないわ。この子もとっても気分が良いみたい」

 そう言うと、大きなお腹を愛おしそうにさすった。

「メガネ、メガネ……」

 と言って僕は両手で宙を泳がせおどけた。

「やあね、どこかの漫才師みたいじゃない」

 と言ってさつきはクスクスと笑いながら僕にメガネをかけた。視界の焦点が合い、重い瞼を細めながら窓の外を見ると、夜の色は淡く解かれ始めていた。さつきはすでに朝ごはんを用意していたようで、それをバッグに詰めると僕らは肩を寄せながら玄関を出た。

 カタカタと小さな音のする古いワンボックスの軽自動車。僕らは暇さえあればこの車で旅に出た。日本中どこまでも走った。その旅の途中で、この海辺の道の夜明けに出会い、僕らは心を奪われた。それがこの街に住むきっかけだった。


 助手席に乗ったさつきは、ここしばらく見られなかったような力強い表情をしていた。そして、「朝が生まれる」と言って口元を少しだけ緩ませると、瞳の中にその生まれ来る小さな光を瞬かせた。僕は周りを注意しながら、その海岸線を可能な限りゆっくりと進んだ。すると、カタカタという小さな音は消えていった。さつきは、走る車の窓からの夜明けを何よりも喜んだ。街々の光は夜明けに抗うかのように揺らいでいたが、水平線から昇る太陽の圧倒的な色彩が、その街の光と共に鮮やかに夜を消していった。僕らは指先で手を繋ぎ、それぞれが持つ心の内側の小さな部屋の中で佇みながら、その夜明けを聴いた。その音色はお腹の奥の方を少しだけ刺激し、ゆっくりと広がるように胸へと伝わった。すると僕らの繋がれた指先は、いつものように静かに温かみを帯びていった。太陽は日々、誕生と死を繰り返している。その命を燃やすような夜明けを見るたびに、僕らは目に見えない心の内側の距離を近づけていった。

 家に戻ってしばらくすると、さつきは急に苦しみ出し、僕らは病院へ駆け込んだ。さつきは三日月を産むのと同時に、その命を全うした。彼女はいつも僕に向かって「命に変えてでも、素晴らしいこの世界にこの子を送り出すわ」と言っていたが、それは時折独り言のようにも聞こえた。僕はそんな言葉を聞いたところで一つも現実味もなかったから、その度にただうなずき「さつきはいなくならないよ」とだけ言った。そう言うといつも、ほっそりとした手のひらを僕の頬に当て、目を見つめながら「大好きよ」と優しく言った。そう言う小さなやりとりが、幾月に一度くらいはあった。そんな日の夜には、大抵細くて鋭い三日月が夜空に浮かんでいた。

 二度と目の覚めることのないないさつきの隣で抱いた三日月の小さな体には、喜びか哀しみかなんてわからないような僕の涙が、いつまでもこぼれ落ちつづけた。


     *


 僕は息の絶えた猫を自転車の前のカゴに横たえた。「行こう」と言って、三日月の両脇を抱えあげ、後のバケットの席に乗せた。海岸までは長いくねくねとした細い下り坂を進めばいいだけだった。道はあちこちが欠けていて、何度もどこんどこんとタイヤを弾ませた。その度に三日月は後ろの席で、きゃっきゃとはしゃいだ。

 海岸線の道路まで来ると、道の脇のテラスのような場所で止まり、僕らは自転車を降りた。海岸へは遊歩道を歩き、その先の少し長い階段を降りていく。いつものように三日月のヘルメットを脱がせようとすると「いいのよこのままで」と、さっきまでとは違う落ち着き払ったトーンで言った。僕は「うん」と言って、小さなマグライトを渡した。

 包んだ猫を抱え、ヘルメットをかぶったままの三日月と遊歩道を歩くと、遠くに伸びる半島には街の光が瞬いた。空にはずっと僕らを追いかけてきたあの満月が、今では高いところから僕らを照らしていた。海原の水面には月の道が現れて、海辺は明るく照らされていた。階段に着くとその先が真っ暗だったので、三日月はなかなか降りようとせず、「こわい」と言った。僕と三日月は、しばらくそこで遠くの景色を眺めた。背中のすぐそばを車が通り過ぎ、その度に僕らの前に長い影を作った。その影は右から左へ流れるように伸びていき、闇に吸い込まれるように消えていった。

 二、三台の車が通り過ぎると、三日月は繋げと言いたそうに「ん」と言って手を差し出した。僕は両手で持っていた猫を片手で抱え直すと、反対の手でその手を握った。三日月は前だけを見ながら僕の手をぎゅっと握り返した。三日月がマグライトで階段の先を照らすと、僕らはゆっくりと砂浜へと降りた。

 足の裏には心地良い砂の感触が広がり、夜の海辺は穏やかに波が打ち寄せていた。その波の打つ音は、大勢がひそひそと話し合うような囁きに聴こえた。自分がもし、どこかの見知らぬ道で倒れて死んでしまったのなら、こんな夜の浜辺にでも埋めてもらいたい。もしくは焼いてパラパラと潮にでも流れたい。そんなことを思った。猫から伝わる妙な冷たさと、三日月と繋いだ手から伝わる暖かさが僕の死生観を刺激した。息の絶えた猫を抱えたまま、しばらく二人でその海辺を眺めた。三日月は僕の太ももあたりにしがみつき、海の方を見ると「まっくら」と言った。

 僕は三日月の肩に手を置くと「お母さんのところに行こうか」と言った。すると三日月は僕の方を見上げ「お母さんじゃないわ、母よ」と諭すように言った。

 歩き出すと三日月は、なかなか僕の足にしがみつけなくて、何度も掴み損ねてはケラケラと笑った。握りしめていたマグライトは、その勢いであちこちに光の軌跡を作った。

 しばらく歩くと、植樹や花壇できれいに整地された密やかな「家」があった。左右からは何本もの大きな楠木が、その場所を守るように茂っていた。毎週のようにこのさつきのお墓にお参りに来るのだが、夜に来たのは初めてだった。植物たちは潮風にも負けず、夜でも映える華やな色をつけていた。その敷地の脇の、人が通らないような場所にある大きな木の根の脇にスコップを刺した。その土は浜辺の砂と混ざり合い、妙な柔らかさがあったから、小さな子供でも少しずつ掘ることができた。三日月は夢中で土を掘った。

「ねえ、こんなにほったら母の家にもつながっちゃう? 猫さん、母の家にいかれるといいな」

「そうだね、母にも伝えようね」そう言うと三日月は大きな声く「うん」と答えた。

 十分な穴が掘れるとバスタオルから猫を出し、底にそっと置いた。三日月はその猫を見るとスコップを持ったまま見つめ、「きれい」と言った。僕にも最初見たときよりも、どこか毛艶が良くなっているように見えた。

「ここなら朝になれば日が差して、暖かいだろうね」

「そうなの?」

「きっと太陽がたくさん照らしてくれるはずだよ」

 三日月を見ると、手に何か掴んでいた。

「それは何?」

「これは猫さんのいえのしるし」

 それは楠木の切れ落ちた一握りの枝だった。僕らは包まれた猫にそっと砂をかけると、その枝を挿した。三日月は一枚だけ付いていた葉を海の方に向けた。僕らは少し離れてその様子を眺めた。

「ここならまいにち母があそんでくれるね。母もうれしい? よろこぶ?」

「もちろん。それに毎日パンケーキも焼いてくれるよ」

「だから猫はパンケーキはたべないっていったじゃない。もう」

「そうだそうだった。で、猫は何を食べるんだっけ?」

「猫はかなしいできごとをたべるのよ」

「悲しい出来事?」

「そうよ」

「三日月も何か悲しいこと、ある?」

「もうないわ。この猫さんがぜんぶたべてくれたから」

 そう言うと三日月は、手を上げながら背伸びをし、抱っこをしろとせがんだ。僕は両手が空いた手で三日月をしっかり抱き上げると、浜辺を後にした。

 さつきの墓段の花筒にも小さな枝が一切れ刺され、葉は海に向けられた。 


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